みんなの楽校 ポランの広場 代表 高津陽子さん

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障害児の放課後に寄り添いたい

「ずっと気になっていたのは、障害のある子どもたちの放課後と余暇活動なんです」と明るい笑顔で語るのは、東京都の小学校教諭として31年間教壇に立った高津陽子さん。

江戸川区をはじめ、都内の普通学級で多くの子どもたちと向き合いながら、教育者としての経験や人とのつながりを深めてきた。その中で、障害児教育への情熱を抱き続け、今もその思いを胸に活動を続けている。

Profile

みんなの楽校 ポランの広場
高津 陽子(たかつ ようこ)さん

1950年(昭和25年)栃木県佐野市に生まれる。大学の教育実習をきっかけに教職の道を志し、埼玉・栃木での勤務を経て東京都の教員採用試験に合格。足立区の学校で初めて教壇に立ち、教育者としての歩みを始める。その後、葛飾区や江戸川区で普通学級・特別支援学級に携わり、31年間にわたり子どもたちと真摯に向き合い続けた。障害児教育への情熱を胸に、ドイツ留学を経て「江戸川賢治の学校」を設立。退職後は「みんなの楽校 ポランの広場」を開き、障害のある子どもたちの放課後支援に力を注ぐ。現在も音楽やアートを通じて、誰もが輝ける場づくりを続けている。

教育現場で育まれた情熱

埼玉県や栃木県で補助教員として経験を積んだ後、東京都の教員採用試験に合格し、足立区の小学校で教員としての第一歩を踏み出した高津さん。日々子どもたちと向き合う中で障害のある児童への関心が次第に高まった。

結婚を機に江戸川区小岩へ転居。以後も普通学級での勤務を続けながら、障害児教育への思いは消えることなく心に残り続けた。葛飾区での11年間の勤務を経て、自ら希望して江戸川区の特別支援学級へ異動。子ども一人ひとりの違いを受け止め、温かな愛情で包み込む姿勢を貫いてきた。
身体のコントロールが難しい子どもに押されて頚椎ヘルニアを患った際も、校長や保護者には一切伝えず、ただひたすらに子どもたちの個性と向き合い続けた。

宮沢賢治とシュタイナー教育との出会い

ある日、職場の同僚が教育研究者・鳥山敏子さんの実践記録に共感し、連絡を取ったことがきっかけで、高津さんも鳥山さんと出会うことに。鳥山さんは、公立小学校で教鞭をとりながら、生きた鶏を絞めて調理する「いのちの授業」や、子どもたちと創る劇など、枠にとらわれない学びを実践してきた人物。宮沢賢治の研究者でもあり、ドイツの思想家ルドルフ・シュタイナーが提唱した芸術教育「シュタイナー教育」を基盤に「東京賢治の学校」を設立。全国各地でワークショップや講演活動を展開していた。

高津さんは鳥山さんの思想に深く惹かれ、ワークショップに何度も参加。ついには、江戸川区に「江戸川賢治の学校」を立ち上げるに至った。同校では、宮沢賢治の作品を“からだで読む”というユニークな学びを実践し、「やまなし」の物語では、カニの親子や兄弟、川の流れを子どもたちが演じる劇に仕立て、物語の世界を全身で感じる学びを展開した。

教員としての仕事と「江戸川賢治の学校」の運営を両立していた高津さんだが、頚椎ヘルニアの影響で長期休暇を余儀なくされ、心身ともに困難な時期を迎える。そんな中、鳥山さんから「ドイツのシュタイナー養成所に一緒にいかない?」と声をかけられ、1年間の留学を決意する。宮沢賢治の思想とシュタイナー教育のつながりを肌で感じながら学びを深めたこの経験が、後に「みんなの楽校 ポランの広場」へとつながっていく。

みんなの楽校「ポランの広場」

退職後、高津さんは、退職金を「これは天からもらったお金」と解釈し、障害のある子どもたちの放課後の居場所づくりに惜しみなく注いだ。

夫からも「自分の思うように使えばいい」と背中を押され、江戸川区内に一軒家を借りて「みんなの楽校 ポランの広場」を開設。施設内には、宮沢賢治の童話にちなんだ二つの部屋があった。「ゴーシュの部屋」は『セロ弾きのゴーシュ』が由来で、障害があるないに関わらず誰もが学べる場所。一方、「虔十(けんじゅう)の部屋」は知的障害のある青年が繰り起こす感動的な童話『虔十公園林』にちなんで名づけられたもので、障害のある子どもたちが楽しく学び、遊ぶ場だ。ここでは習字アートやコラージュ療法、音楽などが講師によって行われ、子どもたちの感性がのびのびと育まれた。

「ウソをつかない」「思ったことをそのまま言う」。子どもたちは純粋である。高津さんは「結局、自分が一番得したと思う」と笑顔で語る。

「ポランの広場」は、宮沢賢治の童話にちなんで名付けられた、共生の理想を象徴する活動の場。

一人ひとりの中に宿る可能性

数えきれない思い出の中には、心に深く刻まれたエピソードがある。言葉を発することが難しかった高学年の女の子が、高津さんの自転車を見て、「自転車がほしい!」と親に伝えたが、「この子には難しい」と判断され、買ってもらえなかった。

それでも高津さんは、その子の可能性を信じ、教室に一台の自転車を用意。放課後、土手で一緒に練習を重ねた結果、彼女はついに自分の力で乗れるようになった。高津さんの「やってみよう」と寄り添う気持ちが、子どもの未来を切り開いた瞬間でもあった。また、学校でいじめや孤立に苦しみ、居場所を見つけられなかった情緒障害の男の子にとっても、「ポランの広場」は心の拠り所となった。

彼はそこで人のやさしさに触れ、「地平線」という詩を綴った。そこには、孤独の中で見つけた希望と、寄り添ってくれる存在への感謝が込められていた。

ガイドヘルパーとして広がる支援の輪

施設の運営と並行してガイドヘルパーの資格を取得した高津さんは、知的障害や肢体不自由など、様々な困難を抱える人々の介助に携わってきた。送り迎えや食事、着替えなどの日常支援を通して、ここでも多くの出会いが生まれたという。初めて担当した青年は、炎ばかりを描いていた。けれどその炎の中には驚くほど生き生きとした動物たちが潜んでいた。高津さんは、その絵に込められた感情の深さに心を打たれ、「この子の中には誰にも見えない世界がある」と感じたという。また、全身麻痺の女性が音声パソコンで描いた絵もまた静かな力強さに満ちていた。彼女は30代までしか生きることができなかったが、指一本動かせない身体から生まれた色彩は、見る者の心を震わせるほど豊かだったと、高津さんは涙ながらに振り返る。

「虎十(けんじゅう)の部屋」にて

音楽療法。リズムに合わせて楽しく音楽♪

習字アート。それぞれが個性豊かなアート作品をつくり上げた。

鑑別所に入る等、荒れた生活をしたK君は高津さんの教え子の一人。「賢治の学校 綾 自然農生活実践場」で谷川賢作さんのピアノに出会い、コンサートを開くまでになった。

輝く命に光を当て続け

15年ほど経ち、「ポランの広場」の一軒家を手放すことになった高津さん。それでも活動の場を固定せず、音楽コンサートやアート展などを通して、障害のある人々が輝ける場を作り続けている。「どんなに重度の障害があっても、その人の中にはダイヤモンドがある。光るものがあります」と語る高津さんの言葉には、ゆるぎない信念が宿る。一人ひとりの本質を大切にしたいとの思いから、彼らが輝ける場をつくり続ける高津さん。その歩みは、誰もが自分らしく輝ける社会へのみちしるべとなっている。

とぽす展に出展した「ポランの広場」作品コーナー。

「ポランの広場」で心の居場所を見つけたH君が綴った詩「地平線」。やさしい心の広がりを描いた詩に音楽療法の講師が曲をつけ、CDとなった。

炎のマジカルアーティストとして活躍するS君の作品集。
(みんなの楽校 ポランの広場出版部より)

夢・下小岩

高津さんが会長を務めるボランティアグループ。2021年(令和3年)発足した。子どもたちから高齢者、障害のある方も、外国人も含めた多世代の交流の機会を、イベント等のプログラムを通じて提供し、地域・街づくりに貢献している。

2025年度(令和7年度)下小岩小学校PTA主催「しもこいわフェス」に参加して。

夢・下小岩の活動動画

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